三島由紀夫の年譜

 

1925年(大正14)          ▲このページトップへ戻る
1月14日 東京の四谷で生まれる。本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。農林省に勤める平岡梓(ひらおかあずさ)と倭文重(しずえ)の長男。
3月 2階で子供を育てるのは危険だという理由で、生後しばらくして、祖母・夏子が公威を養育する。夏子は、坐骨神経痛で病床につき、激痛のため、たびたびヒステリーを起こす。
1928年(昭和3)            ▲このページトップへ戻る
2月23日 妹・美津子誕生。
1930年(昭和5)            ▲このページトップへ戻る
1月 自家中毒にかかり、危篤状態になるが、一命をとりとめる。その後、自家中毒は小学校入学の頃まで続く。
1月19日 弟・千之(ちゆき)誕生。
1931年(昭和6)            ▲このページトップへ戻る
4月8日 学習院初等科に入学。
12月 短歌1首、俳句2句が「小ざくら」に掲載。「小ざくら」は学習院初等科の機関誌。以後、中等科に進学するまで詩、短歌、俳句が毎号に掲載される。
1933年(昭和8)            ▲このページトップへ戻る
3月~4月 四谷区西信濃町16番地に転居
1937年(昭和12)           ▲このページトップへ戻る
4月8日 学習院中等科に進学。渋谷区大山町(現在の渋谷区松涛)に転居。
7月 「初等科時代の思い出」を「輔仁会雑誌」(ほじんかいざっし)に発表。
1938年(昭和13)           ▲このページトップへ戻る
3月 「酸模」(すかんぽう)「座禅物語」、詩、短歌、俳句を「輔仁会雑誌」に発表。「酸模」は公威が書いた初めての小説。
4月 中等科2年に進級。
10月 祖母・夏子に連れられ、歌舞伎座で初めて「仮名手本忠臣蔵」を見る。この頃、母方の祖母・橋トミに連れられて初めて能を見る。演目は「三輪」。以後、「歌舞伎」「能」の観劇に夢中になる。
1939年(昭和14)           ▲このページトップへ戻る
1月18日 祖母・平岡夏子死去(享年62歳)
4月13日 中等科3年に進級。終生の恩師となる清水文雄が国文法と作文の担当教師になる。
9月28日 輔仁会手帳に「路程」などの執筆一覧を記す。「路程」は「東の博士たち」より前に書かれた戯曲で、当館で初めて発見された。
1940年(昭和15)           ▲このページトップへ戻る
1月1日 「心のかゞやき」執筆。「紫陽花」(あじさい)擱筆(かくひつ)。これらの作品は当館で発見された新資料。
3月 「公園前」「ラディゲ」擱筆。「鳥瞰図」(ちょうかんず)執筆。これらの作品は当館で発見された新資料。
6月14日 文芸部委員に選ばれる。「仔熊の話」擱筆。「仔熊の話」は当館で発見された新資料。
9月14日 「でんしゃ」擱筆。「でんしゃ」は当館で発見された新資料。
12月23日 「幼年時」起筆。「幼年時」は当館で発見された新資料。
1941年(昭和16)           ▲このページトップへ戻る
2月24日 東文彦あて書簡。この書簡によると、「屋敷」執筆を中断し、「ミラノ或ひはルツェルンの物語」を執筆し、中断したとある。「ミラノ或ひはルツェルンの物語」は当館で発見された新資料。
7月~8月上旬 「花ざかりの森」の原稿を清水文雄に見せ、批評を請う。
8月21日 「真白な椅子」を起筆。「真白な椅子」は当館で発見された新資料。
9月 「花ざかりの森」が「文芸文化」9月号から12月号まで、4回にわたり連載。このとき、初めて<三島由紀夫>のペンネームを用いる。蓮田善明(はすだぜんめい)に絶賛される。
9月17日 清水文雄にあてた書簡の下書き「これらの作品をおみせするについて」を書く。「心のかゞやき」「公園前」「屋敷」「ミラノ或ひはルツェルンの物語」「花の性および石のさが」の6作品を見せようとした。
1942年(昭和17)           ▲このページトップへ戻る
4月4日 学習院高等科(文科乙組)に進学。
4月25日 「青垣山の物語」擱筆。「青垣山の物語」は当館で発見された新資料。
7月1日 東文彦、徳川義恭(よしやす)の3人で同人雑誌「赤絵」を創刊。東文彦の死去に伴い、2号で廃刊になった。
8月26日 祖父・平岡定太郎死去(享年79歳)。
1943年(昭和18)      ▲このページトップへ戻る
2月24日 輔仁会の総務部総務幹事となり、各クラブの予算決定や輔仁会全体を統括。
4月5日 高等科2年に進級。
6月6日 輔仁会春季文化大会で「やがてみ楯と」が上演。「やがてみ楯と」は当館で発見された新資料。
10月8日 東文彦死去(享年23歳)。
12月18日 「檜扇」起筆。「檜扇」は当館で発見された新資料。
1944年(昭和19)      ▲このページトップへ戻る
2月28日 「平岡公威自伝」擱筆。「平岡公威自伝」は当館で発見された新資料。
5月16日 「徴兵検査通達書」により、加古川町にて徴兵検査を受ける。第二乙種合格。
9月9日 学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となる。学業短縮措置により、9月の卒業となる。天皇が臨席。宮内省から恩賜の銀時計、ドイツ大使からドイツ語の小説3冊、華族会館から図書数冊を受ける。
10月1日 東京帝国大学法学部法律学科独法に入学(学習院からの推薦入学)。
10月15日 七丈書院刊『花ざかりの森』を上梓。初めての短編集。
10月22日 「縄手事件」擱筆。「縄手事件」は当館で発見された新資料。
1945年(昭和20)           ▲このページトップへ戻る
1月10日 学徒動員として群馬県太田町の中島飛行機小泉製作所に行く。総務部調査課文書係に配属。事務仕事のかたわら「中世」を執筆。
2月 中河与一の好意により、「中世」第一回と第二回の途中までを「文芸世紀」に発表。
2月4日 入営通知の電報を受け取る。遺書を墨書し、遺髪と遺爪を残す。
2月6日 父・梓と一緒に兵庫県富合村(現・加西市)へ出立し、入隊検査を受ける。軍医より右肺浸潤の診断を下され、即日帰郷となる。
5月5日 勤労動員で神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠へ行く。演劇「若人よ蘇れ」はこの体験をもとに作られた。
6月 友人・三谷信の妹、邦子に会いに軽井沢へ行く。
8月15日 豪徳寺の親類の家で終戦の詔勅を聞く。
8月19日 蓮田善明がマレー半島のジョホールバルで連隊長を射殺して、ピストル自殺(享年41歳)。
10月23日 妹・美津子、腸チフスのため死去(享年17歳)。
1946年(昭和21)           ▲このページトップへ戻る
1月 「中世」第四回を「文芸世紀」に発表。
1月27日 鎌倉在住の川端康成を初めて訪問。「中世」と「煙草」の原稿を持参する。このときの印象を書いた「川端康成印象記」は当館で発見された新資料。
2月15日 鎌倉文庫「人間」の木村徳三編集長と川端康成との間で「煙草」の採用が決まる。
5月11日 翌年の11月23日まで、「会計日記」をつけはじめる。「会計日記」は当館で発見された新資料で、日々の活動記録や小遣い帳をかねている。同年、12月14日に太宰治に会ったことも記している。
6月 「煙草」を「人間」に発表。
6月27日 「耀子(てるこ)」を擱筆。「耀子」は当館で発見された新資料。
12月 「人間」に「中世」全編を発表。
12月17日 ダンス教習所のシルク・ローズでダンスを習う。以後、定期的にダンスを習い、ダンスパーティーにも参加する。
1947年(昭和22)           ▲このページトップへ戻る
3月5日 「舞踏病」起筆。「舞踏病」は当館で発見された新資料。
7月11日 日本勧業銀行入社試験。
7月22日 高等文官試験。7月26日まで(25日は試験なし)。
11月28日 東京大学法学部法律学科卒業。卒業式は欠席。卒業証書を一ヶ月ほどしてから取りに行く。
12月 「自殺企図者」(「盗賊」第二章「決心とその不思議な効果」)を「文学会議」に発表。
12月13日 高等文官試験に合格し、大蔵省に入省。大蔵事務官に任命され、銀行局国民貯蓄課に勤務。
1948年(昭和23)           ▲このページトップへ戻る
1月2日 年始の挨拶のため川端康成を訪問。
2月 「恋の終局そして物語の発端」(「盗賊」第一章「物語の発端」)を「午前」に発表。
3月 「出会」(「盗賊」第三章)を「思潮」に発表。
7~8月 出勤途中の朝、勤務と執筆による睡眠不足と過労のため、渋谷駅でホームから線路に落下。この事故がきっかけとなり、職業作家になることを父・梓が許す。
8月下旬 河出書房の坂本一亀(さかもとかずき)と志邨孝夫(しむらたかお)が、書き下ろし長篇小説(後の「仮面の告白」の執筆依頼のために大蔵省仮庁舎の三島を訪ねる。三島は快諾する。
9月2日 大蔵省に辞表を提出。
9月22日 辞令を受け依願退職となる。
10月 「美的生活者」(「盗賊」第四章「周到な共謀(上)」)を「文学会議」に発表。
10月26日 国際乗馬倶楽部に入会。7年ぶりに乗馬を始める。
11月20日 『盗賊』が真光社から刊行。序文は川端康成。
1949年(昭和24)           ▲このページトップへ戻る           
7月5日 『仮面の告白』が河出書房から発刊。
10月3日 「愛の渇き」の取材のため、大阪府豊中市熊野田に行き、江村家の農園及び周辺地域を取材。「愛の渇き」創作ノートは当館で発見された新資料。
12月16日 この頃、木村徳三が光クラブの小説化をもちかける(後の「青の時代」)。「青の時代」創作ノートは当館で発見された新資料。
1950年(昭和25)           ▲このページトップへ戻る
1月 「純白の夜」を「婦人公論」に連載開始。10月まで。「純白の夜」創作ノートは当館で発見された新資料。
6月30日 『愛の渇き』を新潮社から刊行。
7月 「青の時代」を「新潮」に連載開始。12月まで。
7月末~8月初頃 目黒区緑ヶ丘に転居。
10月 「邯鄲(かんたん)―近代能楽集ノ内」を「人間」に発表。
12月25日 『青の時代』を新潮社から刊行。
1951年(昭和26)           ▲このページトップへ戻る
1月 「禁色」(きんじき)を「群像」に連載開始。10月まで。「禁色」創作ノートは当館で発見された新資料。「綾の鼓(あやのつづみ)―近代能楽集ノ内」を「中央公論」に発表。
11月10日 『禁色 第一部』を新潮社から刊行。
12月25日 朝日新聞特別通信員として、初の海外旅行に出発。ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フワン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマに滞在。
1952年(昭和27)           ▲このページトップへ戻る
1月 「卒塔婆小町(そとばこまち)―近代能楽集ノ内」を「群像」に発表。
5月10日 海外旅行を終え、羽田空港に到着。
8月 「秘楽」(ひぎょう)を「文学界」に連載開始。翌年8月まで。(「秘楽」は「禁色 第二部」
10月5日 紀行文集『アポロの杯』(あぽろのさかずき)を朝日新聞社から刊行。
1953年(昭和28)           ▲このページトップへ戻る
3月4日 「潮騒」の取材で三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活などについて取材。「潮騒」創作ノートは当館で発見された新資料。
7月25日 『三島由紀夫作品集』を新潮社から刊行開始。全6巻。各巻に「あとがき」を書く。
8月31日 「潮騒」の追加取材のため、再び神島を訪ねる。台風などについての取材。
9月30日 『秘楽・禁色 第二部』を新潮社から刊行。
1954年(昭和29)           ▲このページトップへ戻る
1月 「葵上(あおいのうえ)―近代能楽集ノ内」を「新潮」に発表。
6月10日 『潮騒』を新潮社刊から刊行。
8月8日 映画「潮騒」のロケ見学のため神島に行く。
10月 「沈める滝」の取材で、奥利根の須田貝ダムと奥只見ダムへ行く。主に工事に関する取材。
10月20日 東宝映画「潮騒」封切。
1955年(昭和30年)         ▲このページトップへ戻る
1月 「沈める滝」を「中央公論」に連載開始。4月まで。「班女(はんじょ)―近代能楽集ノ内」を「新潮」に発表。「潮騒」が第1回新潮社文学賞に決定したことが「新潮」「芸術新潮」に発表される。
4月30日 「沈める滝」を中央公論社から刊行。
6月7日 「幸福号出帆」の取材。「幸福号出帆」創作ノートは当館で発見された新資料。
9月 「白蟻の巣」を「文芸」に発表。「白蟻の巣」は第2回岸田演劇賞を受賞。
9月16日 早稲田大学バーベルクラブ主将の玉利斉(ひとし)の指導のもとに、自宅でボディビルの練習を始める。
11月5日 「金閣寺」の取材、19日まで。鹿苑寺とその周辺、東舞鶴(金剛院、由良川など)、妙心寺の修行僧の生活、五番町、南禅寺周辺、大谷大学などを取材。
1956年(昭和31)           ▲このページトップへ戻る
1月 「金閣寺」を「新潮」に連載開始。10月まで。「永すぎた春」を「婦人倶楽部」に連載開始。12月まで。後楽園ジムのボディビルコーチ鈴木智雄に会い、弟子入り。
3月 文学座に入座。「金閣寺」取材のため京都へ行く。この頃、鈴木智雄が自由ヶ丘にボディビルジムを開き、三島はジムに通うようになる。
4月30日 戯曲集『近代能楽集』を新潮社から刊行。
8月19日 自由ヶ丘の熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿(みこし)をかつぐ。
9月 ボディビルコーチの鈴木智雄の紹介により、小島智雄のもとでボクシングの練習を始める。
10月30日 『金閣寺』を新潮社から刊行。特装限定版も同時刊行。
11月27日 「鹿鳴館」を第一生命ホールで初演(文学座)。三島は植木職人役で連日主演。
12月 「鹿鳴館」を「文学界」に発表。
12月25日 『永すぎた春』を講談社から刊行。
1957年(昭和32)           ▲このページトップへ戻る
1月 「道成寺―近代能楽集ノ内」を「新潮」に発表。
1月22日 「金閣寺」が第8回読売文学賞を受賞。
3月5日 戯曲集『鹿鳴館』を東京創元社から刊行。
4月 「美徳のよろめき」を「群像」に連載開始。6月まで。
6月20日 『美徳のよろめき』を講談社から刊行。
7月9日 ドナルド・キーン英訳「近代能楽集」を出版するクノップ社から招待を受け、北米に出発。
11月30日 『三島由紀夫選集』(全19巻)を新潮社が刊行開始。昭和34年7月完結。
1958年(昭和33)           ▲このページトップへ戻る
1月10日 8日にローマを出発し、帰国。
3月10日 「鏡子の家」取材のため、勝鬨橋(かちどきばし)、晴海へ行く。「鏡子の家」創作ノートは当館で発見された新資料。
6月1日 川端康成夫妻の媒酌により杉山瑤子と結婚。その後、新婚旅行として箱根、熱海、京都、大阪、別府、博多へ行く。
6月7日 映画「炎上」の撮影見学のため大映京都撮影所へよる。
8月19日 大映映画「炎上」封切。
10月13日 清水建設と住宅建築の契約をする。
11月27日 中央公論社の笹原金次郎に剣道指南を依頼。以後、指南者をかえながらも稽古を続ける。
1959年(昭和34)           ▲このページトップへ戻る
1月18日 「鏡子の家」取材のため富士山麓の青木ヶ原樹海へ行く。
3月16日 『不道徳教育講座』を中央公論社から刊行。
4月 「熊野(ゆや)―近代能楽集ノ内」を「声」に発表。
5月10日 大田区南馬込の新居に転居。
6月2日 長女(紀子)誕生。
9月20日 『鏡子の家』(第一部、第二部)を新潮社から刊行。
11月 「宴のあと」(うたげのあと)の取材のため中央公論社の嶋中鵬二らとともに般若苑(はんにゃえん)を訪れ、畔上輝井(あぜがみてるい)に面会。「宴のあと」創作ノートは当館で発見された新資料。
11月14日 大映の永田雅一社長とともに記者会見し、映画俳優として大映と契約したことを発表。
1960年(昭和35)           ▲このページトップへ戻る
1月 「宴のあと」を「中央公論」に連載開始。10月まで。
2月5日 『続不道徳教育講座』を中央公論社から刊行。
3月1日 「からっ風野郎」の撮影中に、エスカレーター上に倒れるシーンで、誤って頭を強打、虎の門病院に入院。
3月23日 三島主演の大映映画「からっ風野郎」封切。
5月 文学座の企画参与に就任。
7月 「弱法師(よろぼし)―近代能楽集ノ内」を「声」に発表。
8月15日 「獣の戯れ」(けもののたわむれ)の取材のため、浜松、西伊豆を旅行。「獣の戯れ」創作ノートは当館で発見された新資料。
11月1日 夫人同伴で世界旅行に出発。ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークを経て、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリス、ドイツに滞在。新年をイタリアのローマで迎え、ベニス、ミラノ、アテネ、カイロ、香港などを経て1月に帰国。
11月15日 『宴のあと』を新潮社から刊行。
1961年(昭和36)           ▲このページトップへ戻る
1月 「憂国」を「小説中央公論」に発表。
2月6日 深沢七郎「風流夢譚」の推薦者であるとの風聞が流れ、右翼から脅迫される。護衛の警官が3月まで身辺警護をする。
3月15日 「宴のあと」が人権侵害(プライバシーの権利の侵害)であると有田八郎元外相が東京地裁に告訴する。
6月12日 「獣の戯れ」を「週刊新潮」に連載開始。9月まで。
9月30日 『獣の戯れ』を新潮社から刊行。
11月13日 「美しい星」取材のため飯能(はんのう)で天体観測。「美しい星」創作ノートは当館で発見された新資料。
1962年(昭和37)           ▲このページトップへ戻る
1月 「美しい星」を「新潮」に連載開始。11月まで。
1月29日 第13回読売文学賞の戯曲賞を「十日の菊」が受賞。
3月 「午後の曳航」の取材のため、講談社の川島勝、松本道子と横浜へ行く。
3月14日 大映映画「黒蜥蜴」封切。
5月2日 長男(威一郎)誕生。
10月20日 『美しい星』を新潮社から刊行。
1963年(昭和38年)         ▲このページトップへ戻る
1月14日 芥川比呂志、岸田今日子ら29人が文学座を脱退し、福田恆存(つねあり)が中心となって劇団「雲」を結成。三島は文学座の理事になり、再建に力を注ぐ。
2月 「林房雄論」を「新潮」に発表。
8月30日 「絹と明察」の取材のため、彦根、近江八景へ行く。9月6日まで取材。
9月10日 『午後の曳航』を講談社から刊行。
10月 「剣」を「新潮」に発表。
11月25日 「喜びの琴」上演可否を巡り、文学座を退団。
1964年(昭和39)           ▲このページトップへ戻る
1月 「絹と明察」を「群像」に連載開始。10月まで。「音楽」を「婦人公論」に連載開始。12月まで。
1月10日 演劇団体NLT結成。三島は顧問となる
2月 「喜びの琴」を「文芸」に発表。
5月7日 「喜びの琴」を日生劇場で初演。
10月10日 東京オリンピック開催。「毎日新聞」「朝日新聞」「報知新聞」の特派記者として取材。
10月15日 『絹と明察』を講談社から刊行。
1965年(昭和40)           ▲このページトップへ戻る
1月16日 「撮影台本 憂国」擱筆
2月20日 『音楽』を中央公論社から刊行。
2月26日 「春の雪」(豊饒の海・第一巻)取材のため、帯解の円照寺を訪ねる。「円照寺」創作ノートは当館で発見された新資料。
3月10日 英国文化振興会の招待でイギリスへ出発。28日、帰国。この旅行を記した「英国旅行」は当館で発見された新資料。
4月15日 大蔵映画のスタジオで「憂国」の撮影。
9月 「春の雪」(豊饒の海・第一巻)を「新潮」に連載開始。昭和42年1月まで。
9月5日 夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアの各地を旅行。10月31日まで。
9月24日 ノーベル文学賞候補に挙がる。
10月12日 「暁の寺」(豊饒の海・第三巻)の取材のため、バンコクに行く。「暁の寺」創作ノートは当館で発見された新資料。
11月 「サド侯爵夫人」を「文芸」に発表。「太陽と鉄」を「批評」に連載開始。昭和43年6月まで。
11月14日 「サド侯爵夫人」紀伊国屋ホールで初演(NLT+紀伊国屋ホール提携公演)。
11月15日 戯曲『サド侯爵夫人』を河出書房新社から刊行。
1966年(昭和41年)         ▲このページトップへ戻る
1月 ツール国際短編映画祭で映画「憂国」が上映され、センセーションを引き起こしたが、グランプリを逃し次点となる。
1月22日 「サド侯爵夫人」の脚本で第20回芸術祭賞を受賞。
4月10日 映画版『憂国』を新潮社から刊行。
4月12日 映画「憂国」がアートシアター系の新宿文化、日劇文化の両劇場で封切。
6月 「英霊の声」を「文芸」に発表。
6月17日 「奔馬」(豊饒の海・第二巻)の取材のため、奈良の率川神社(いさがわじんじゃ)の三枝祭(さいくさのまつり)を見に行く。「奔馬」創作ノートは当館で発見された新資料。
7月18日 第55回芥川賞選考委員を務める。第63回(昭和45年度上半期)まで。
8月 広島、熊本を訪れる。広島では恩師・清水文雄らと会い、熊本では荒木精之らと会って「奔馬」の神風連関係の取材。書籍も集める。
8月22日 「奔馬」の取材のため、ドナルド・キーンと一緒に奈良・大神神社(おおみわじんじゃ)に行く。
11月8日 「奔馬」の取材のため、山梨県の梁川へ行く。
11月28日 「宴のあと」裁判の和解が成立。
1967年(昭和42)           ▲このページトップへ戻る
2月 「奔馬」を「新潮」に連載開始。昭和43年8月まで。
4月1日 国立劇場理事(非常勤)に就任。
4月12日 陸上自衛隊に体験入隊。5月27日まで。
9月25日 インド政府の招きにより、夫人同伴でインド・タイ・ラオス旅行に出発。10月23日まで。
10月25日 戯曲『朱雀家の滅亡』(すざくけのめつぼう)を河出書房新社から刊行。
1968年(昭和43)           ▲このページトップへ戻る
2月2日 「奔馬」の取材のため、府中の中央矯正研究所を訪問する。
4月17日 劇団NLTを脱退し、劇団浪曼劇場を結成。三島は松浦竹夫と幹事に就任。
7月 「文化防衛論」を「中央公論」に発表。
9月 「暁の寺」を「新潮」に連載開始。昭和45年4月まで。
9月23日 ユネスコ運動全国大会が京都で開催され、伊藤整、中村光夫らとともに日本文化研究国際会議の日本側文学代表を務める。
10月5日 「楯の会」(たてのかい)を結成。
10月20日 『太陽と鉄』を講談社から刊行。
12月 「わが友ヒットラー」を「文学界」に発表。
1969年(昭和44)           ▲このページトップへ戻る
1月5日 『春の雪』を新潮社から刊行。
1月18日 「わが友ヒットラー」を紀伊国屋ホールで初演(劇団浪曼劇場第1回公演)。
2月25日 『奔馬』を新潮社から刊行。
3月24日 「暁の寺」取材のため御殿場二ノ岡の別荘地に行く。
4月25日 映画「人斬り」に田中新兵衛役で出演することになり、大映京都撮影所で記者会見。
5月10日 『サド侯爵夫人』を新潮社から刊行。
5月13日 東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会主催による「東大焚祭」の討論会に参加。
6月28日 『癩王のテラス』(らいおうのてらす)を中央公論社から刊行。
8月9日 大映映画「人斬り」封切。
1970年(昭和45)           ▲このページトップへ戻る
1月30日 『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)を中央公論社から刊行。
3月6日 米誌「エスクワイア」4月号で「世界で最も重要な百人」の一人として紹介される。
5月1日 「天人五衰」(豊饒の海・第四巻)の取材のため、清水港、駿河湾へ行く。
7月 「天人五衰」を「新潮」に連載開始。昭和46年1月まで。
7月10日 『暁の寺』を新潮社から刊行。「天人五衰」の取材のため、円照寺へ行く。
8月 「天人五衰」の取材のため、清水へ行く。下田から大島、利島方面の海の夕景を取材。新富町の帝国興信所を取材。
11月12日 池袋東武百貨店大催事場で「三島由紀夫展」を17日まで開催。一日一万人の盛況。
11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて割腹自殺。45歳。
1971年(昭和46)           ▲このページトップへ戻る
1月14日 府中市多磨霊園の墓地に埋葬される。
2月25日 『天人五衰』を新潮社から刊行。

*年譜作成にあたり、新潮社刊『決定版三島由紀夫全集』第42巻を参考にしました*